胆振線 - 廃線跡Report

はじめに

【区 間】

 伊達紋別 - 京極 - 倶知安(83km
  京極 - 脇方(
7.1km
【主な駅】
 伊達紋別 壮瞥 蟠渓 北湯沢 新大滝 喜茂別
 京極 倶知安
【沿 革】
 
1919.11.15 倶知安 - 京極開通[京極軽便線]
 1920.07.15 京極 - 脇方開通[京極軽便線]
 1922.09.02 京極線に改称[京極軽便線]
 1928.10.21 京極 - 喜茂別開通[胆振鉄道]
 1940.12.15 伊達紋別 - 徳舜別(新大滝)開通[胆振縦貫鉄道]
 1941.09.27 胆振鉄道と合併 [胆振縦貫鉄道]
 1941.10.12 徳舜別 - 西喜茂別(喜茂別)開通[胆振縦貫鉄道]
 1944.07.01 胆振縦貫鉄道を買収、胆振線に改称[京極線]
 1970.11.01 京極 - 脇方廃止
 1986.11.01 全線廃止

 はじまりは、豊富な鉄鉱石を運ぶために建設された軽便鉄道で、まず倶知安から京極まで、翌年には鉱山のある脇方までが完成した。続いて、農産物等の輸送を目的に胆振鉄道によって京極〜喜茂別、胆振縦貫鉄道によって伊達紋別〜徳舜別(後の新大滝)が開通した。さらに胆振鉄道が徳舜別〜西喜茂別を開通させたことによって伊達紋別と倶知安の間が一本の鉄道で結ばれることになり、脇方からの鉄鉱石も円滑に室蘭の製鉄所に送ることができるようになった。もともとは、輪西(現在の東室蘭)とを結ぶ鉄道の誘致合戦が行われていたが、それは海岸線を走る長輪線(現在の室蘭本線)に決まったため、以来念願の鉄道敷設だった。
 その後、戦争の深刻化とともに鉄道も戦時体制に組み込まれることとなる。それ以前に胆振鉄道と合併していた胆振縦貫鉄道が戦時買収私鉄として国有化され、既設の京極線と合わせて、伊達紋別から倶知安までを結ぶ胆振線が誕生した。戦争が終わったあとも胆振線として運行が続けられたが、鉱山の閉山によって鉄鉱石を始めとした脇方からの輸送量は大幅に減少し、京極〜脇方の支線が廃止。残りの区間も他の線区同様廃止対象路線に指定され、1986年にその歴史に終止符を打った。


現況

 80km を超える長い路線であるが、駅舎については解体・撤去が完了しており、蟠渓など一部の駅跡にホームが放置されているほかは残っているものはほとんどない。また、橋梁についてもあまり残っておらず、久保内〜蟠渓に並行する道路から2つの鉄橋をみることができるほかは、比較的長いものはすでに撤去されている。
 一方、トンネルは山間部など再利用が進まない区間が多いためか、いくつかではコンクリートで封鎖されているものの、ほぼそのままの状態で残っている。また、線路跡はサイクリングロードとなった区間もあり、比較的容易に辿っていくことができる。キロポストなどもいくつか確認することができる。ただ、遺構の有無に関わらず、記念碑など胆振線の存在を伝えるものはそれほど多くはない。


解説

【伊達紋別】(だてもんべつ:開拓者伊達氏からの地名に、同名の駅があるため元の地名をつなげたもの)
 現在も室蘭本線の駅として現役で、特急列車をはじめとした多くの列車が発着している。歴史ある木造の駅舎は街の景観とあわせてきれいに整備されており、NHKのにっぽん木造駅舎の旅でも紹介されている。
 胆振線の列車は駅本屋に面した1番線ホームの反対側にかつてあった0番線に発着していたが、現在は使われていない。また、路盤はホームと同じ高さに埋められており、アスファルトと砂利の切れ目から、かろうじて当時の様子を想像することができる。

 線路はしばらく室蘭本線と平行した後に北へと進路を変えていたが、その辺りの線路跡ははっきりしない。
 いったん痕跡は途切れるが、そのすぐ先からはサイクリングロードとして整備され、次の駅の上長和の少し先まで自転車で辿ることができる。スタート地点は警報機などがモニュメント的に置かれた公園となっている。
 サイクリングロードを先に進むと、途中にはキロポストや「跨道橋」に変わった国道の跨線橋が残っている。


【上長和】(かみながわ:当初は上長流。長流川の上流からついたが、のちに地名にあわせて改称)
 廃止後、駅施設は撤去され、しばらく残っていたホームも既に撤去されている。現在は胆振線跡のサイクリングロードの休憩地点として整備され、その際に作られた模造のホームはここが駅だったことを示す、数少ない手がかりだ。

 上長和から先もしばらくはサイクリングロードが続いている。遺構はすでに撤去されほぼ残っていないが、少し進むと残されている錆び付いた標識は、この区間ではキロポストと共に胆振線のものとして貴重な存在だ。
 さらに北上したところでサイクリングロードは終わり、線路跡は活用されることなく自然へと還っている。

 また、この区間は戦争中に起こった昭和新山の誕生の影響を受け、数度にわたって線路の付け替えが行われている。その旧線の跡は、以前は国道沿いにその旨の看板が出されてはいたものの、ほぼ放置された状態だったが、現在ではその一部が整備されたため、容易に確認することができる。

【壮瞥】(そうべつ:滝の川を意味するアイヌ語「ソ・ペッ」から)
 上長和と同様に駅舎はすでに撤去されているものの、駅前広場はほぼ当時のままの雰囲気を保っている。また、隣接する草地には埋もれた状態で2本のホームも残っており、駅本屋側のホームの長さから、現役当時の賑わいをわずかながらもうかがい知ることができる。
 また、同地点に設置されている路線バスの停留所の名前は「壮瞥駅前」となっている。

 壮瞥から先の線路跡は一部を除いて比較的はっきりとしている。
 国道の東側を通っていた胆振線はしばらくして国道の下をくぐって西側へと位置を変えるが、その国道と交差する部分の跨線橋もそのままになっており、胆振線のプレートが当時と変わらず残っている。
 その後も、果樹園の間を若干距離をおきながら国道とほぼ平行して線路跡は続いているが、久保内付近では不分明となっている。


久保内】(くぼない:アイヌ語で仕掛け弓のある沢を意味する「ク・オ・ナイ」から)
 国道より数段高い位置にあった久保内駅は、付近に集合住宅が建てられるなどしており、またその前後も道路になるなど、かつての雰囲気はまったくない。国道から駅へ向かう道と商店、交番などが、かろうじて駅前の雰囲気を残している。

 蟠渓方向に進むとまもなく、国道と胆振線の位置関係が入れ替わっていた。交差部分は、国道が旧道から新道に切り替わっている部分にあたるが、踏切跡ははっきりしない。
 その先は断続的に痕跡が残っており、国道との交差地点からすぐにあるレルコマベツ川の鉄橋と蟠渓の少し手前の白水川を渡る鉄橋は、レールは取り外されているが赤いガーダーはそのまま残っている。

蟠渓】(ばんけい:下の川を意味するアイヌ語「パンケ・ペッ」から)
 ゆるいカーブの途中にあった駅は、1面のホームがそのまま残っている。
 駅舎はすでに撤去されているが、付近は古くからの温泉地として現在でもいくつかの温泉施設が営業しており、周辺は比較的きれいに整備されている。
 同じ場所にはバスの停留所がおかれているが、停留所の名前は壮瞥と同様に、「蟠渓『駅前』」となっている。


 蟠渓から先では、国道と交差した後長流川を渡っていたが、その橋梁は撤去されて残っていない。ただ、手前の小川を渡るガーダー橋はそのままだ。
 川を渡ったあと再び国道と交差するまでは、対岸をいくつかのトンネルで抜けていたが、現況は確認できていない。
 また、長流川を再度渡る部分の橋梁もすでになく、高い築堤が川の際で終わっている。


 その先にあるトンネルは両側ともフェンスで遮られているのみでコンクリートで埋められていない。北湯沢側の落石覆いも残っており、国道からも容易に確認できる。
 また、他にも落石防護柵など当時の雰囲気をよくとどめており、埋もれてしまったガーダー橋も見ることができる。

【北湯沢】(きたゆざわ:当初は優園。付近の温泉からで、同名の駅があったため、頭に「北」をつけた)
 温泉地にあったこの駅だが、跡地には大きな温泉ホテルが建てられており、当時の痕跡はまったくない。近年、隣接地にもう1棟ホテルが建てられ、さらに駅を思わせるはなくなっている。

 ここより先の線路跡は「平成ふるさとの道」と名付けられた遊歩道・サイクリングロードとして整備され、新大滝駅跡まで続いている。途中の「胆振線おもいで橋」は、胆振線の鉄橋と同じ場所にが作られているが、橋脚など当時のものの流用しているようだ。
 また、川を渡ったあとすぐに国道をくぐっていた跨線橋は、「優徳跨線橋」のはプレートはそのままに残っている。国道にある標示板には頭に「旧」が冠せられている。

【優徳】(ゆうとく:大滝村の元の地名徳舜別の中でも優れた所の意味でつけられた地名による)
 駅舎、ホームとも完全に撤去されており、痕跡はまったくない。かつての駅前の様子も、駅が存在していたことを示すものはほとんど残っておらず、駅前道路や店鋪跡の住宅などから、かろうじてそれとわかる程度だ。


 北湯沢から続くサイクリングロードはさらに新大滝まで続いているが、この先の区間では、さびた標識やキロポストが残っている。また、サイクリングロードで使われている橋梁も当時のものから架け替えられてはいるがその橋台は昔のままだ。また、サイクリングロードから離れた部分では短い鉄橋がそのままに残っていた。
 新大滝の付近ではコンクリートの建造物が建ち並んでいるが、これは胆振線の遺構ではない。ただ、これは当時操業していた鉱山からの硫化鉄を胆振線の貨車に運び入れるための設備とのことで、現在ではその一部が残っているに過ぎない。

【新大滝】(しんおおたき:当初は徳舜別。改称した地名と同じ駅名がすでにあったため「新」をつけた)
 駅跡一帯は、すっかり公園などに整備されて、その存在はまったくわからなくなっている。公園には村をテーマにしたモニュメントが作られていたが、胆振線とはまったく関係ないようだ。北湯沢から続いてきたサイクリングロードは終わり、ここにも「平成ふるさとの道」を示す看板が建っていた。

 線路跡は国道から離れたまま山の中腹を進んでいく。落石よけがそのままになっているが、そこは周辺で進められている工事に利用されていて、資材や機械が中におかれていた。また、さらに山中には、両方向の開口部がコンクリートで完全に封鎖されているトンネルも残っている。

 他にも、人家から離れているためか、いくつかの橋梁や橋台、架道橋などが放置されており、痕跡をたどることは比較的容易だ。ただ、この区間にかつて存在していた尾路遠仮乗降場の跡は、廃止からかなりの期間が経過しているためか確認することはできていない。

【御園】(みその:アイヌ語の「オロ・ウエン・ヌプキ・ペッ」を御路園とあて、その前後から「卸園」とした)
 小さな集落の中心にバス停があるが、そこはいかにも駅前広場という雰囲気の空き地。しかし、すでに駅舎は撤去され、薮の中に2面のホームが放置されているだけだ。それも一部はすでに崩れかけており、そう遠くはないうちに記憶とともに風化してしまうのだろう。


 農地の中を抜ける線路跡は、低い築堤として並行する道々からもはっきりと判別することができる、一部でキロポストも残っているが、目立つものはその程度で、次の北鈴川駅手前にあった橋梁は跡形もなく消え去っていた。

【北鈴川】(きたすずかわ:開拓者の名と尻別川が由来だが、すでに「鈴川」があったため「北」をつけた)
 付近には最近になって公営住宅が建てられており、駅の痕跡はまったくない。前後の線路跡もはっきりせず、周辺の雰囲気からも、かつて駅があったことを想像するのは難しい。


 線路跡は並行する道路を道々から国道へと変えて喜茂別へと向かうが、途中の交差する部分には今でも跨線橋が残っている。その下の線路跡も比較的はっきりとしている。ただ、いくつかあった橋梁はいずれもがすでに撤去されていて、喜茂別市街手前の跨線橋も通り抜けができないようになった。

 市街地では草地となっているところが線路跡で、踏切跡、標識などを見ることができる。しかし、途中からは新しい住宅街の中に消えてしまっており、その変ぼうぶりには驚かされる。

【喜茂別】(きもべつ:当初は西喜茂別。山奥にある川の意のアイヌ語「キモペッ」から)
 中心部から少し離れたところにあった駅だが、周辺が住宅地として整備され、色とりどりの家が立ち並ぶようになっては、その痕跡はすっかり消え去っている。道路沿いに造られた小さな公園の片隅に建てられた説明版が、駅があったことを知る唯一の手がかりだ。

【留産】(るさん:道がそこを下る所の意味のアイヌ語「ルオサニ」から)
 もともと小さな駅だったが、現在その跡はまったく残っていない。前後の線路跡も畑の中に消えてしまっており、周辺の人家もほとんどが他に移ってしまったようだ。

 線路跡は畑の一部となって消え去っている所も多く、痕跡を見つけるのは難しい。ただ、その片隅に小さな橋梁が残っていたのが、胆振線が存在していた数少ない証拠だ。

【南京極】(みなみきょうごく:当初は川上温泉。京極の南側にあるため「南」をつけたもの)
 駅舎、ホームともすでに撤去され、空き地となっているが、駅前通りの雰囲気などは当時の面影がある。また、駅前にあった民家の畑は構内跡に作られたもので、そこには貨物ホームの一部も残っているとのことだ。

【東京極】(ひがしきょうごく:京極の東側にあるため「東」をつけたもの)
 ここも駅舎などの遺構はまったく残っていない。ただ、南京極駅跡同様、道路や建物などはいかにも駅前という雰囲気だ。

 その先胆振線は市街地の中を通り抜けていたが、現在でもその跡を辿っていくことができる。ただ、途中の橋梁は撤去され、国道の跨線橋もすでにない。

【京極】(きょうごく:京極高徳がこの地に京極農場を開いたためこの名がついた)
 構内跡地には農協の施設が立ち並び、当時の様子からは一変してしまった。当時をしのばせるものは駅前にあった運輸会社の営業所くらいだろうか。廃止後もしばらくはホームなどが残っていたとのことだが、その痕跡すらも見つけることはできなかった。

 線路跡は農協施設群のはずれから再び姿をあらわし、しばらくの間続いていた。途中にある踏切跡もその部分の舗装が違うことから見つけることができる。また、橋梁はすでに撤去されていて跡形もないが、そこから続く深い薮の奥にはトンネルが口を塞がれながらも残っていた。新しいコンクリートとのコントラストが印象的だ。

【北岡】(きたおか:京極の北側の高台にあるためにつけられた)
 畑に取り込まれて、ホームはもとより、線路跡もすっかり消えてしまっているが、その片隅に取り残されたように建っているのは元の待合室とのことだ。現在は物置として使われているようで、駅の存在を伝える唯一の存在。


 この辺りの線路はもともと畑の中を突き抜けていたため、今ではすっかり畑と変わり、ほとんど判別できない。

【寒別】(かんべつ:山の上に入って行く川を意味するアイヌ語の「ヌプリカンペッ」の下の部分から)
 道路からだと駅の跡は何一つ残っていないように見えるが、脇の道から裏側にまわると、石積みのホームを確認することができる。盛り土されたようで、ホーム上面は土に隠れてしまっており、見えているのは側面だけだ。


 この辺りの線路はもともと畑の中を突き抜けていたため、今ではすっかり畑と変わり、ほとんど判別できない。

【参郷】(さんごう:住所が倶知安町三号線であるため号を郷にかえて名付けた)
 踏切のすぐ横にあった駅だが、ホームなどの遺構は残っておらず、あるのは、その踏切の跡として道路に見える継ぎ目と警報機の土台程度。


 途中にあった跨線橋は改良工事によって埋められてしまい、その前後の跡もまったくわからなくなっている。しかし、そこから先では道路となっている部分もあり、辿っていくことは容易だ。

【六郷】(ろくごう:住所が倶知安町六号線であるため号を郷にかえて名付けた)
 駅跡に作られた六郷鉄道記念公園にはホームがあり、駅名標示板や横付けされた客車などが展示され、きちんと整備がされている。案内板には六郷駅の由来も記され、沿線の駅跡では唯一きちんとした形で残されている。ただ、このホームは後から作られたもので、石造りの本物のホームは道路を挟んで反対側の空き地の中で薮に埋もれていた。

 住宅地の中の草地や未舗装道として残る線路跡はそのまま倶知安へと向かっている。途中、草むらの中に小さな橋梁跡も残っているが、その上には板が渡されており、前後は踏み分け道となっていることから今でも使われているようだ。脇には標識も錆ついたままに放置されていた。ただ、国道5号との交差部分では平面化工事が行われていて、既に跨線橋は取り壊されており、六郷からの線路跡は途切れてしまっている。

 国道を越えたあとの線路跡は明瞭で、空き地として続いている。木々の並びと、枕木で作られた柵からも、そのルートを確認することができる。ただし、函館本線との合流地点付近は、宅地開発がされており、痕跡は完全に消滅している。

【倶知安】(くっちゃん:アイヌ語で崖のそばの川を意味する「クッサム・ウン・ペッ」から)
 函館本線の駅として現役だが、胆振線が廃止され、特急列車も通らなくなった今は、かつての活気はない。胆振線の列車が停まっていた駅本屋側のホームもすでに使われておらず、線路は撤去されてしまった。


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