三菱鉱業専用鉄道 - 廃線跡Report

はじめに

【区 間】

 上芦別 - 辺渓三坑(8.9km)
【主な駅】
 -
【沿 革】
 1947.08   芦別鉱業所開設
 1949.12.24 上芦別 - 辺渓開通
 1954    辺渓〜辺渓三坑 
 1964.03  全線廃止

 三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道はその名の通り、芦別鉱業所からの石炭の輸送のために作られた。芦別での炭鉱開発は古く、1915年には三菱による本格的な炭鉱が開坑していたが、この三菱鉱業芦別鉱業所は、芦別炭砿が開発したものがはじまりで、下芦別(芦別)からの軽便鉄道も敷かれていた。その後買収し、三菱鉱業の経営となったが、1933年には芦別での採炭を中止し、軽便鉄道も廃止された。
 戦後になって必要性が高まり、1947年に芦別鉱業所が油谷鉱業所とともに操業を開始、2年後に両鉱業所への専用鉄道が開通している。これによって、従来行われていた索道による石炭輸送は廃止された。また、1954年には辺渓三坑まで路線が延長されている。
 沿線の炭坑からの石炭と坑員などの輸送に活躍した専用鉄道だが、早くも1964年には閉山、それにともない、専用鉄道も廃止となった。

現況

 この専用鉄道だけでなく、明治鉱業の専用線や森林鉄道も接続していた上芦別は広い構内跡や近隣の木材置場などに痕跡を見ることはできるが、当時のにぎわいはない。廃止から40年近く経ち、かつて炭坑があったことを想像するのも難しい状況になりつつあるが、いくつかの橋梁、トンネルがそのことをかろうじて伝えている。

解説

[上芦別]
 現在でも根室本線の駅として現役だが、かつては芦別鉱業所専用鉄道をはじめとして、明治鉱業上芦別鉱業所の専用線、芦別森林鉄道が接続し、石炭と木材輸送の拠点して発展していた。今では広い構内跡と付近の木材置き場にその面影があるのみ。下芦別地区(現在の芦別市街)とどちらを中心部にするかあらそったこともあるというが、それも今は昔だ。

 しばらく根室本線と併行して進んでいたが、そのあたりの路盤跡は空き地となって残っている。水路には短い鉄橋もかかっており、引き込み線の橋台も残っている。引き込み線はそのまま選炭所に続いていたが、その建物は木材工場として使われていたため、ほぼそのままの状態で残っている。
 さらに進むと根室本線から離れるが、木材工場の敷地内に給水塔と車庫の建物が残っている。給水塔は下のコンクリート部だけだが、車庫は一部手を加えられているが、ほぼ原形のまま再利用されている。一見すると隣接して建てられたと一体化しているが、よく見ると柱の部分に使われているレンガなどが歴史を感じさせる。


 総合体育館が建てられている一帯の路盤跡はまったくわからないが、その先、空知川を渡る鉄橋は廃止から間もなく解体されつつも、両側の橋台と橋台側の橋脚が一本ずつ、かろうじて残っている。また、それに続いて、対岸にはトンネルの上芦別側入り口が口を開けている。ただ、もう一方の辺渓側入り口は土砂で埋まり、上辺がかろうじて顔を出している程度で、遠くない時期に完全に隠れてしまうのだろう。


[旭町]
 トンネルを出るとすぐにペンケ川を越えていたが、そこには川を挟んで2本の橋脚が放置されている。その先の路盤跡は不分明だが、さらに先には当時のものらしい擁壁と、盤の沢川を渡る国道の橋の脇にはコンクリートアーチの橋梁が残っている。盤の沢川にいくつもかかっていた橋梁の跡はその他にもあり、3度目に渡る部分は、ここにもコンクリートアーチ橋を確認することができる。その手前の林道橋の側には古い橋台が放置されているが、これが専用鉄道のものか、林道橋に架け替えられたものか判断できなかった。続いて築堤とその途中に橋台があらわれ、キャンプ場の手前まではっきりしている。



[油谷]
 かつて辺渓三坑が開かれていたはずの周辺は、閉山後国民宿舎が建てられ、健民センターとしてキャンプ場が整備されており、その痕跡はほとんどない。ただ、付近の山などにその面影があるくらいだ。また油谷炭坑の遺構も一部を除き、ほとんど撤去されてしまっている。



2000.9