札沼線 - 廃線跡Report

はじめに

【区 間】
 (桑園 - )新十津川 - 石狩沼田
【主な駅】
 新十津川 石狩橋本 上徳富 雨龍 石狩追分 和 北龍 石狩沼田
【沿 革】
 1931.10.10 新十津川(中徳富) - 石狩沼田
[札沼北線]
 1934.10.10 浦臼 - 中徳富
[札沼北線]
 1934.11.20 桑園 - 石狩当別
[札沼南線]
 1935.10.03 石狩当別 - 浦臼、全通、札沼線に改称
 1943.10.01 石狩月形 - 石狩追分休止
 1944.07.21 石狩当別 - 石狩月形、石狩追分 - 石狩沼田休止
 1946.12.10 石狩当別 - 浦臼再開
 1953.11.03 浦臼 - 雨龍再開
 1956.11.16 雨龍 - 石狩沼田再開
 1972.06.19 新十津川 - 石狩沼田部分廃止

 札沼線はその名の通り、かつては札幌と沼田を結んでいた。ただ、当初は札沼北線と呼ばれた中徳富(新十津川)と石狩沼田間のみ。その後延長されて、名実ともに札沼線となったのは開通から4年後のことだった。
 しかし、戦争の激化から資材を供出することになり、当初札沼南線と呼ばれた区間以外は休止となってしまう。戦後一部区間が再開されるも、沿線住民の運動によって全線が再開されたのはそれから10年以上が経過してから。しかも長くは続かず、利用者の少ない新十津川以北の部分が廃止されてしまった。全通していたのは、戦前戦後をあわせても四半世紀に満たない期間でしかなかった。

現況

 廃止から30年が経ち、ほとんどが平野部を通っていたことから、すでに農地や住宅地に変わってしまっている。鉄道が伸びていたことが嘘のようだ。唯一上徳富の駅舎がほぼそのままに残っているが、それ以外は雨竜と石狩追分に石碑が建てられていたくらい。
 徳富川に架かる水管橋がかつての鉄橋を再利用したもののようだが、その他の大きな橋梁跡はない。ただ、沼田町内の畑の中には短いコンクリート橋がそのままに残されている。
 札沼線は現在では学園都市線と愛称が付けられ、沿線住民の通学・通勤の足として利用されているが、北と南ではその印象は対照的で、北側は札沼線の名がふさわしい雰囲気。また、全線を通して運行される列車は一本も設定されていない。

解説


【新十津川】
(しんとつかわ:当初は中徳富。奈良県十津川村からの移住によって村が作られたため)
 札沼線の終着駅として現役ではあるが、1日数本の列車しか来ない無人駅となってしまっている。駅舎は昔のたたずまいを残しているが、構内には単線のレールしかない。そのレールはホームを過ぎたあとも石狩沼田方向に100メートルほど続いているが、比較的新しいアパートによって、行く手が遮られている。

 その先は、かつて農地だったところが新たに住宅街として区画割りされており、痕跡はすっかり消えてしまっている。ただ、徳富川に架かっている水管橋は札沼線の鉄橋を利用したもののようで、新十津川からのレールの先とほぼ直線でつながる。さらに先に進むと、ほとんどは農地に組み込まれたため、明確な跡は残っていないが、農地の区画の形などから、断片的にたどっていくことができる。

【石狩橋本】(いしかりはしもと:)
 駅跡とその周辺は住宅地と道路として整備されているようで、痕跡はほとんど何もない。ただ、周辺にはレンガの農業倉庫が残っており、その壁には「橋本」の文字が半ば消えかかっていた。

【上徳富】(かみとっぷ:徳富川の上流にあることからついた名前)
 駅舎は農機具の倉庫として唯一残っている。一見するとただの廃屋のようだが、裏にまわると改札口がそのままになっているため、かつては駅舎であったことが確認できる。ただ、構内跡は深い薮で覆われておりホームの存在もはっきりしない。また、付近には鉄道官舎らしき建物もあり、人が住んでいる様子はないが、一部は近くの自動車工場で利用されているようだ。

 
 この辺りは、他の道路と違って斜めに通っており、それに並行する線路跡も残っている。コンクリートの暗渠もそのままだ。しかし、それもすぐに農地に埋没してしまい、その後は跡形もない。ただ、一部農業用水を渡る短いコンクリート橋が残っている。


【雨龍】(うりゅう:そこに波のたつ川を意味するアイヌ語「オ・リリ・オ・ペッ」が訛ったもの)
 駅跡には簡素な碑が建てられていて、近くには腕木式信号機が保存されている。駅の裏手には大きな農業倉庫が残ってはいるが、その他に駅の存在を示すものはなく、線路跡も判然としない。

【石狩追分】(いしかりおいわけ:)
 ここにも碑が建てられているが、他の駅跡と同様に付近にレンガの農業倉庫が立ち並んでいるほか、痕跡は何もない。構内跡の外れには新しい農業倉庫が建てられ、行く手を遮っている。

【和】(やわら:開拓功労者の出身地が千葉県矢原町であったことから同音の「和」がつけられた)
 現在服飾工場があるところが駅跡のようだが、その建物が元の駅舎なのかはよくわからない。付近に遺構はまったくないが、レンガの農業倉庫が数多く建ち、かつては農産物の積み出しで賑わっていたことが想像できる。ただ、町の中心は国道と道々沿いになっていて、現在では辺りはひっそりとしている。

【碧水】(へきすい:他の水が濁っている中、この地方だけは澄んでいたためについた地名から)
 駅跡は国道沿いにある農機具店の裏手のようで、そこには古びた建物が残っている。鉄道関連のものだろうか。ここにも倉庫が周辺に立ち並んでいる。


 再び線路跡は農地に変わり、国道との交差部分の痕跡も見当たらない。国道を過ぎて間もなく、美葉牛川という小さい川を渡っていたはずだが、そこも橋桁はもとより橋台すら残っていないようだ。ただ、そのすぐ近くには畑の中に、コンクリート橋梁が残されているのを国道からも見ることができる。前後は完全に畑となっているため、いつまで残るか微妙ではあるが、数少ない遺構として貴重な存在だ。

【石狩沼田】(いしかりぬまた:沼田喜三郎所有の農場内設置されたため。同名の駅があることから石狩を頭につけた
 留萌本線の駅ではあるが、いくつもあった線路は駅本屋側を残して全て撤去されていた。使われることのないホームは駅名表示板などもそのままだ。


2000.9