はじめに
【区 間】
帯広 - 広尾
【主な駅】
帯広 愛国 幸福 中札内 更別 忠類 大樹 広尾
【沿 革】
1929.11.02 帯広 - 中札内開通
1930.10.10 中札内 - 大樹開通
1932.11.05 大樹 - 広尾開通、全通
1987.02.02 全線廃止
十勝地方の中心都市帯広と大平洋岸の町広尾を結んでいた広尾線は、1922年に公布された鉄道敷設法にある「胆振国苫小牧ヨリ鵡川、日高国浦河、十勝国広尾ヲ経テ帯広ニ至ル鉄道」の一部として1927年に着工され、まず帯広から中札内までが開通した。残りの区間は1932年までに順次開通している。
住民の足として、またじゃがいもや豆といった農産物の輸送に活躍したが、それらは次第に自動車利用へと移行していった。この利用減少に対し、1970年代半ばから「愛の国から幸福へ」というキャッチフレーズとともに愛国・幸福間の乗車券が爆発的なブームとなり、多くの観光客も訪れるようになる。その勢いは廃止が話題にのぼるようになっても衰えることはなかった。
その結果売り上げにも少なからず貢献したが、それも及ばず、1987年、約60年の歴史に終止符が打たれた。計画では苫小牧と帯広を結ぶ路線と発展するはずだったが、様似までは日高線として1937年までに開通していたものの、残された部分がつながることはついになかった。
現況
帯広駅は近代的な高架駅に変わり、周辺の痕跡はまったくないが、それ以外、比較的多くの所ではかつての鉄道の存在を確認することができる。橋梁の多くは撤去されているが、駅舎が保存・展示されている所もいくつかあり、線路跡をたどっていくこともそれほど難しくはない。ただ、大樹駅舎利用のバスターミナルが廃止されたり、保存されていた忠類周辺の鉄道施設の大部分が撤去され、かろうじて駅舎と構内の一部が残されるなど、他の廃線跡でもいえることだが、将来への不安は常に残る。また、愛国・幸福両駅の人気は根強く、現在まで続いている。とくに旧幸福駅は関連商品を扱う商店もそのままで、多くの人が訪れている。
解説
【帯広】(おびひろ:この地に流れる川のアイヌ語名と広大さを込めて「広」の字をあわせた)


道路を渡った先からは遊歩道として整備されているが、それも途中までで、築堤などは空き地となって札内川手前まで続いている。しかし、目立った遺構はなく、札内川に架かっていた橋梁も橋台もろとも撤去されていた。また、その先にあったはずの依田駅もホームだけの駅だったために跡形もなく消え去っている。
【北愛国】(きたあいこく:愛国の北側にあるため)

【愛国】(あいこく:愛国青年団という団体名が地名となり駅名となった)



【大正】(たいしょう:当初は幸震。アイヌ語に幸震の字をあてていたが、後に村名にあわせた)

ここから幸福まで約5kmの間も部分的に残っているところはあるが、多くは農地化している。広大な十勝平野ではじゃがいもなどの農作物が盛んに作られており、広尾線はそのただ中を通っているため、特に帯広側はそういった例がほとんどだ。
【幸福】(こうふく:幸震の中で福井県からの移住者が多いことから一字ずつとってつけたもの)


この駅は、かつてブームとなった「愛国から幸福へ」の「幸福」の駅で、現役時代から観光スポットとして有名だったが、現在でも多くの観光客が訪れている。駅前にある売店では以前から変わらず、愛国・幸福間の切符やキーホルダーなどの記念品を販売している。
【中札内】(なかさつない:かれている川のアイヌ語「サッ・ナイ」からついた札内川の中流にあるため)


【更別】(さらべつ:ヨシ原の川のアイヌ語「サル・ペッ」から)


【上更別】(かみさらべつ:アイヌ語「サル・ペッ」からついた猿別川の上流にあることから)



【忠類】(ちゅうるい:流れの強い沼川のアイヌ語「チウ・ルイ・ト・プッ」から)



さらに進むと大樹の手前では歴舟川を渡っていたが、その橋梁はすでに撤去されていて、帯広側の橋台は残っていない。ただ広尾側のみコンクリートの橋台が放置されており、草むらに埋もれている。この付近から国道の手前までは遊歩道として整備されており、跡を辿ることができる。遊歩道が終わり、国道を渡ると少し行くと道の駅にぶつかるが、大樹駅はその道の駅よりさらに奥にある。
【大樹】(たいき:ノミの多い所のアイヌ語「タイキ・ウシ」から)



【石坂】(いしざか:この地の開拓者である石坂善七の名から)
痕跡はまったく残っていない。駅周辺は再整備されているため、駅舎はすでになく、線路跡も新しく作られた道路となっている。かつての駅前通りなどからその位置を特定することができるが、更別などのような記念碑もないため、駅の存在を思わせるようなものは何もない。

【豊似】(とよに:食土のある所のアイヌ語「トヨイ(トイ・オ・イ)」から)



【野塚】(のづか:この地のアイヌ語の呼び名「ヌプカ」が野原を意味していたため)
駅舎はすでに撤去されており、ホームやその他の痕跡も見つけることはできない。線路跡は一部道路がつくられており、それ以外は特に使われることもなく空き地となっている。
畑の間の緑地として残っている
【新生】(しんせい:二つの集落が合併して新しく生まれたところから)

線路跡は断片的に残っており、木々の切れ目からそれと判断することができる。楽古跨線橋付近では、跨線橋そのものも看板とともに現役で、その前後の線路跡も確認できる。その先の渡河部分では橋梁はすでに撤去されているが、橋台は放置され、それに続く築堤もほぼそのままで、市街地でも明確に残っている。



【広尾】(ひろお:崖の所のアイヌ語「ピロロ(ピラ・オロ)」から)
広尾線の終点として比較的大きな駅だったが、それは現在でもバスターミナルとして使われている。外観は多少手直しされ、新たに鐘が納まる塔屋が設置された。ホームは埋められてしまったようで、駐車場として使われている。また内部も変更が加えられ、半分ほどのスペースで広尾線に関する展示がなされている。ただ、それ以外の部分ではほぼ当時のままの雰囲気で、改札口や当時の時刻表も残されている。
構内の帯広側は鉄道記念公園に整備され、レールなどがモニュメント的に置かれている。


2001.9