名寄本線 - 廃線跡Report

はじめに

【区 間】

 名寄 - 中湧別 - 遠軽
  中湧別 - 湧別(143km)

【主な駅】
 名寄 下川 興部 渚滑 紋別 中湧別 遠軽
  湧別

【沿 革】
 1919.10.20 名寄 - 下川開通
 1920.10.25 下川 - 上興部開通
 1921.03.25 名寄西線に改称
 1921.10.05 上興部 - 興部開通
        名寄東線を編入、名寄線に改称
 1932.10.01 湧別線を編入
 1954.11.10 下湧別を湧別に改称
 1987.03.30 廃止

 名寄と遠軽を結ぶこの路線もかつては「本線」の名の通り、幹線としての役割をになっていた。
 しかし、その始まりは短い軽便線としてで、現在の北見から湧別に向けてつくられた湧別軽便線がそれに当たる。北見から遠軽までは石北本線に編入されて現役だが、廃止区間である遠軽以遠が開通したのは1915年。その時点では開盛までで、翌年に湧別まで全通した。
 一方残りの区間については、議会での承認がなかなか得られず、名寄線として名寄から下川まで開通したのは1919年になってから。ただ、その後は比較的工事は順調に進み、逆側からも湧別から興部までが1921年に名寄東線として開通。同時に名寄線は名寄西線と改称している。同じ年には最後の区間も開通し、それにあわせて名寄から中湧別までを名寄線とした。
 その後、1932年になって、湧別軽便線から変わっていた湧別線が名寄線に編入され、廃止時の形になった。
 当初は旭川から網走方面へ向かうルートとして利用され、急行も走る幹線の一つであったが、石北本線が全通するとそのお株は奪われて、ローカル線に転落。距離の割には人口密度が低く、利用者数も伸び悩んだことから、第2次廃止対象路線に指定された。長大路線であったため、住民の足に多大な影響があると沿線自治体での反対運動も巻き起こったが、1987年についに廃止となった。

現況

 その一部しか確認できていないが、路線の長さに比べてきちんとした形で残されているのはそう多くない。中湧別や、西興部で駅舎などが保存されているが、それ以外は放置されているものも多い。ただ、紋別市内の線路跡に作られた道路には記念のプレートやモニュメントが飾られているなど、永く記憶にとどめるよう配慮がなされているところもあるようだ。

解説

【名寄】(なよろ:川の傍なる河口を意味するアイヌ語「ナイ・オロ・プツ」が変化したもの)
 宗谷本線の駅として現役だが、かつては名寄本線だけではなく深名線も分岐する拠点駅であった。どちらも廃止となった現在では機関区も廃止されており、構内には空き地が広がっている。ただ、駅舎は名寄本線の盛衰を見守ってきた1927年築の歴史ある建物で、名寄本線の列車が発着していた3番ホームは現在でも使われている。


【上興部】(かみおこっぺ:興部川の上流にあることから)
 上興部鉄道記念館として駅舎やホームなどが保存されている。歴史ある木造の駅舎は保存状態が良好で、内部には名寄本線関連の展示物もある。駅舎と反対側のホームには国鉄時代と同様の塗装の気動車がおかれており、休憩所として利用できる。その他、腕木式信号機なども残されている。


【西興部】(にしおこっぺ:もとは「瀬戸牛」(鳥の巣の多い沢の意のアイヌ語)だったが、のちに改称した)
 駅跡周辺は大規模な再開発が行われており、痕跡をみつけることはできない。前後の線路跡は新たに作られた道路となり、駅構内は病院や保育所といった公共施設が建設されている。記念碑なども設けられていない。


【興部】(おこっぺ:「オ・ウコッ・ペ」(川じりが合流している所)を意味するアイヌ語より)
 名寄本線と興浜南線が分岐する拠点となる駅だったが、現在、跡地には広い公園が作られ、その敷地内に建てられた複合施設が道の駅として利用されている。駅舎など残っているものはなく、すっかり様子が変わっている。ただ、道の駅の中に設けられた鉄道歴史展示コーナーでは、名寄本線の歴史を記したパネルやレールが展示されており、また、公園内には簡易宿泊所として改装した気動車がおかれているなど、その歴史はしっかりと伝えられている。

 道の駅から先の線路跡はサイクリングロードとして整備され、国道の手前まで続いているが、これは興部から分岐していた興浜南線跡をトレースしているもので、国道の手前まで平行する名寄本線跡は草薮となって放置されている。さらに進むと藻興部川をわたっていたが、緑色の鉄橋がまだしっかりとした状態で残っていた。橋の上には枕木もそのままになっている。また、渚滑の手前でも同じく緑色の鉄橋を確認することができた。



【渚滑】(しょこつ:渚滑川に滝がたくさんあり、その滝つぼを意味するアイヌ語よりついた)
 廃止後しばらくはバス待合所として使われていたようだが、現在は高齢者施設などが建っている。渚滑線も分岐する重要な駅であったが、その面影はまったくない。ただ、駅舎を模して作られたとみられる休憩所と国道の信号機に「渚滑駅前」と書かれていることで、ここに駅があったことを知ることができる。

 線路跡は断片的にだが残っている。放置されているといった感じだ。途中にあった潮見町の遺構は、道路とを結ぶ階段があるはずだったが、見つけることができなかった。

【紋別】(もんべつ:市内を流れる藻鼈川がアイヌ語で「モ・ペッ」(静かな川)と呼ばれていたことから)
 周辺は整備されて、かつての駅前通りは駅裏へと突き抜けている。構内跡にはバスターミナルが新しく建てられていたが、それ以外はまだ再利用はされていない。交番横にある名寄本線を記念する写真入りの案内板によると、ここより元紋別方面にかけての路盤跡に作られた道路は「メモリアル通り線」と名付けられているようだ。街灯などに汽車をかたどったプレートがつけられている。

 メモリアル通り線は元紋別近くまで続いているが、街灯が普通のものに変わる辺りから路盤跡と離れて、並行する形となる。築堤がはっきり残っている。しかしそれもバイパスと交差する辺りで不分明となる。藻鼈川を渡った橋梁の跡も見つけることはできなかった。

【元紋別】(もともんべつ:紋別の名の発祥の地であることから)
 かつては、近くにあった工場への引き込み線もあった比較的大きな駅だったが、その広い敷地の跡にはバスの車庫や公園などとなり、遺構は特に見当たらない。駅の代わりにこぎれいなバス待合所が作られている。


 元紋別から先の線路跡は多くがそのままになっている。ほぼ国道に平行するかたちで続いており、道路上からも木々の間の築堤を確認することができる。標識なども点在しており、新しくできたオホーツク紋別空港を越えた、小向手前の築堤上には距離票が放置されていた。

【小向】(こむかい:付近にあるコムケ沼(アイヌ語で曲がっている沼の意の「コムケ・ト」からつけられた)
 最近公園に整備されたようで、遺構は何も残っていない。周辺には店舗などもなく、国道から続く道が駅前通りだったと思われるが、その面影もあまり感じられない。

 これより先にもいくつかの駅があったが、簡素な施設であれば撤去されてしまうとその場所を特定するのが難しく、遺構を見つけることができなかった。しかし、築堤などは依然として残っており、橋梁についても、橋台のみ残っていることが多いが、一部には橋桁がそのままになっているところもあった。

【中湧別】(なかゆうべつ:湧別川の中流にあることから)
 駅舎はすでにないが、跡地に建てられた道の駅の一角に鉄道資料館としてホームと跨線橋が残され、留置されている車掌車の中には関連の資料が展示されている。その前には古い町内案内板も残っていた。それに描かれている通り、ここは名寄本線と湧網線との分岐点であり、湧別までの支線もある重要な拠点でもあった。
 その支線と遠軽までの区間は湧別軽便線の一部として建設されたところで、ほぼ直線で結ばれているところからも、名寄本線の成立の経緯やその盛衰などを見てとることができる。

 遠軽方の路盤跡は放置されたままで、湧別川の支流にはコンクリートの橋梁がバラストもそのままに残っている。チューリップ公園近くの北湧の跡は見つけることができなかった。その後の築堤なども比較的残っていて、遠軽近くでは線路がそのままになっていたが、赤錆たレールの終端には車止めの標識がつけられていた。

【開盛】(かいせい:)
 周辺は宅地として再開発されており、遺構は残っていない。かつての駅前通りも、線路跡を突き抜けて反対側の国道へとつながる道路となっている。ただ、この場所に駅があったことを示す記念碑がおかれており、その歴史を知ることができる。また、線路沿いに設けられていた防風林が一部そのままになっており、名寄本線の位置と方向を示している。


 開盛から先の線路跡は一部道路となっており、かつての跨線橋の下をくぐっている。その跨線橋は、越えるものが線路から道路へと役割は変わったものの、跨線橋のプレートはそのままに残されている。ただ、さらに先からは農地に組み込まれて、線路跡ははっきりしない。サナブチ川の渡河部分でも橋台などを見つけることはできなかった。

【北遠軽】(きたえんがる:遠軽の北方にあることから)
 農地の中にある簡素な設備の駅だったが、それだけに撤去された跡、遺構などを見つけることは難しい。現在農地と工業団地が周辺に広がっている。ただ、前後に続いていた林の列は現在もほぼそのままに残っており、線路跡を特定することは比較的容易に行える。


 工業団地と農地が途切れたあと沿線は住宅街に変わるが、特に利用されずに放置されているため、それ以降も築堤などが比較的明瞭な状態で続いている。遠軽に近づくにつれて、名寄本線は徐々に高度をあげていたが、その部分も住宅の裏手にはっきりと残っている。遠軽まで500mほどの地点から出現する赤茶けたレールは、名寄本線のものをそのまま利用したもののようだ。




【遠軽】(えんがる:町のシンボル「瞰望岩」がアイヌ語で「インカル・ウシ・イ」であるため)
 石北本線の駅として現役。ここを通る列車は進行方向が変わるという珍しい駅で、道内では他に札幌でも同じ現象が起こる。これは石北本線よりも先に名寄本線が開通していたためで、北見方面と湧別方面の行き来ではそのようなことはおきない。だが、その名寄本線がなくなった今は、何とも珍しい駅となっている。


[湧別支線]
 オホーツクリラ街道と名付けられた道が中湧別駅跡の道の駅から湧別まで続いているが、そこがかつて列車が走っていたところ。かつての湧別軽便線の一部である湧別までの短い支線だ。このオホーツクリラ街道は歩道もある広い道で、そのために遺構を見つけることは難しい。本線や湧網線が分岐する地点も特定することができなかった。
 また、途中にあった四号線の場所も、道路脇に置かれている東屋の辺りのようだが、痕跡をみつけることはできなかった。


【湧別】(ゆうべつ:最初は湧別川の下流なため下湧別だったが、その後に改称した)
 現在消防署などが建つあたりが駅跡。道路沿いには石碑が作られているが、それ以外に駅を思わせるものはない。裏手には、サロマ湖畔のテイネイまでを結んだ湧別軌道の碑が建てられていた。


2000.5
2008.4