はじめに
【区 間】音威子府 - 南稚内(148.9Km)
【主な駅】
音威子府、小頓別、中頓別、浜頓別、猿払、南稚内
【沿 革】
1914.11.07 (旭川 -)音威子府 - 小頓別[宗谷線]
1916.10.01 小頓別 - 中頓別[宗谷線]
1918.08.25 中頓別 - 浜頓別[宗谷線]
1919.11.01 浜頓別 - 浅茅野[宗谷線]
1920.11.01 浅茅野 - 鬼志別[宗谷線]
1922.11.01 鬼志別 - 稚内(南稚内)、全通[宗谷線]
1923.05 稚泊航路開設
1928.12.26 稚内 - 稚内港(稚内)[宗谷線]
1930.04.01 音威子府 - 稚内を北見線に分離改称[北見線]
1939.02.01 稚内を南稚内に改称(稚内港を稚内に)
1961.04.01 天北線に改称
1989.05.01 全線廃止
1912年までに開通していた旭川から音威子府までの宗谷線の延長として建設されたのが最初。建設に際しては、オホーツク海側廻りと日本海側廻りとでルートの対立がおこり、最終的に決定となったのは前者、後の天北線のルートだった。なお、後者の沿線住民はその後も積極的な運動を行い、現在の宗谷本線である日本海側のルートは後に天塩線として建設された。
まず開通したのは小頓別までで、その後順次延長され、最終的に廃線時の状態になったのは1922年のこと。その後稚泊航路が開設され、さらに1928年には便をはかるために稚内港(現・稚内)まで延長されるなど、樺太への連絡線としても活躍した。が、その2年後には遅れて開通した幌延周りの天塩線にその名称と地位をとられ、北見線と改められた。天北線となったのは1961年。
一ローカル線に転落してしまった天北線だが、それでも急行が運行されたこともあり、また興浜線全通後はオホーツク沿岸ルートの一部を担う線として期待されていた。しかし、他の線区同様時代とともに利用客は減少、興浜北線と興浜南線も全通を待たずに廃止となって、その価値も失われてしまった。廃止はJR発足後の1989年で、他の長大路線とほぼ同時だった。
現況
廃止路線の中でも最長の線区であったためか、その痕跡は各所で見ることができる。同じ道北の羽幌線に駅跡の遺構がほとんどないのに比べ、駅舎が残っているところもいくつかある。代表的なものとしては、松音知が駅舎やホームがほぼそのままで保存され、構内には腕木式信号機や撤去された橋桁などもある。上音威子府も駅舎とホームが残っているほか、駅施設は撤去されているものの、中頓別では駅跡のバスターミナル横に気動車を展示していたり、碑が設置されているところもあり、何らかの形でその存在を記録している。
駅以外では一部で道路になるなどしているが、沿線は山間部など人家の少ないところであるためか、路盤跡は比較的はっきりとしている。短い橋梁もところどころで確認できるが、大きなものについては、ほとんど撤去されてしまったようだ。
解説
【音威子府】(おといねっぷ:川口の濁っている川の意味のアイヌ語「オ・トネ・プ」から)宗谷本線の駅として現役。駅舎は廃止後に建て替えられたとみえ、ログハウス風のモダンな建物となっていた。内部には天北線記念館も併設され、天北線の資料と、機関区が置かれるなど鉄道の町として栄えていたころの音威子府駅のジオラマを見ることができる。現在の構内は広い空き地が目立ち、その差は歴然だ。
天北線はしばらく宗谷本線と平行して進んだ後、国道275号に沿うかたちで北へ向かっている。宗谷本線が国道を跨ぐあたりが分岐点だ。その後も路盤跡は国道から容易に確認できるが、いくつかあった橋梁は、すでに撤去された所が多い。
【上音威子府】(かみおといねっぷ:音威子府川の上流にあることから)
かなり傷みが激しいが、駅舎は原形を保っている。石積みのホームやバラストもそのままだが、放置されているといった印象で、今後いつまでこの状態が維持されるのか、不安なところだ。
上音威子府を出ると間もなく天北川にぶつかる。そこには未だ橋梁が残っている。
そして、ここから天北峠越えが始まる。ここは建設当時は末開の地で、さらに地質が悪く、大変な難工事だったところだ。天北トンネルもそのひとつだが、そのレンガ造りのトンネルは国道からも確認することができる。その手前の路盤跡も比較的はっきりしているが、天北トンネルの浜頓別側は平行する道路もない山中にあり、たどりつくことも難しいため、確認できていない。
【小頓別】(しょうとんべつ:沼に行く川の意のアイヌ語「ト・ウン・ペッ」の頭に「小」をつけたもの)
駅舎などはすでになく、駅前広場はそのまま空き地となっている。その一画の道路際にバスの待合所が建てられているが、そこの壁面に「小頓別駅」と書かれた看板がかかげられ、ここに駅があったことを教えてくれる。
また、かつてはここが歌登町営軌道の起点ともなっていたが、その痕跡もほとんどない。
小頓別を出るとすぐに北へ進路を変え、国道の西側を平行して進む。路盤跡は比較的はっきりしており、次の上頓別まで辿っていくことができる。先の歌登町営軌道は小頓別からそのまま東へ向かっていたが、最近まで残っていた鉄橋などはなくなってしまった。
【上頓別】(かみとんべつ:頓別川の上流にあることから)
駅舎やホームなど、ほぼそのままの状態で残されている。駅名表示板も錆び付いてはいるが、何とか読み取ることが可能だ。ライダーハウスとなっていたようだが、あまり利用されていないようで、放置されているといった印象が強い。
【敏音知】(ぴんねしり:男性の山の意のアイヌ語「ピンネ・シリ」から)
駅跡周辺は道の駅とキャンプ場として整備され、遺構が何もないのはもちろん、周辺の雰囲気も全く変わっていた。ただ、キャンプ場内の駅があった場所に石碑と模擬ホームが作られており、案内板から天北線の概要も知ることができる。
敏音知と松音知の間では何度も蛇行する頓別川とその支流を渡っていたが、その部分には現在も小さな橋梁が残っている。ただ、路盤跡は農地などとなって消え去っているところも多い。
【松音知】(まつねしり:女性の山の意のアイヌ語「マツネ・シリ」から)
施設がほぼまるごときれいな状態で保存されている。駅舎は色が塗り替えられ、窓には板が貼られている。ホーム上には駅名表示板もある。また、それだけでなく、レール、信号機なども残っていて、敷地内には取り外された鉄橋の橋桁も置かれている。ただし駅舎に入ることはできない。駅前に花壇が作られるなど、公開を前提として整備されているようだ。
このあたりの築堤は一部を除きかなりはっきりとしており、平行する国道からも容易に確認できる。中頓別の市街地に入るあたりからは判然としなくなった。
【中頓別】(なかとんべつ:頓別川の中流にあることから)
駅跡はバスターミナルとなり、その隣につくられた「天北線メモリアルパーク」には青く塗られた気動車が1両展示されている。保存状態は良好で、入口には階段が付けられていたが、鍵かかかっていて中に入ることはできなかった。
【浜頓別】(はまとんべつ:頓別川が付近のオホーツク海に注いでいることから「浜」をつけたもの)
駅跡は再開発地区として、立派なバスターミナルが建っている。一足先に廃止となった興浜北線との分岐駅でもあり、それなりの規模を誇っていたが、跡形もない。駅前通りの雰囲気はそのままで、比較的にぎわっている。
浜頓別の先から猿払までの 路盤跡は、20kmあまりのサイクリングロードとして整備され、休憩所なでとして利用されている駅もあるようだ。
【浅茅野】(あさじの:頓別付近は泥炭で低い茅が生えていたことから)
駅舎はすでに撤去されてしまっている。ホームなどの遺構については確認することができなかった。ただ、サイクリングロードとして整備されていることもあり、あまり期待はできないだろう。
【声問】(こえとい:波が崩す所の意のアイヌ語「コイ・ト゜ェ・イ」から)
駅舎、ホームともに撤去されており、駅があったことを示すものは何も残っていない。ただ、前後の路盤跡は比較的はっきりとしており、追跡することは容易だ。
その後も築堤などがよく残っており、市街地に入ってからも少しの間は住宅地の中の細長い空き地となって追うことができる。ただ、それも国道と交差する手前までで、そこからは新しい道路となって南稚内の手前まで続いている。途中にあったはずの宇遠内もすっかりわからなくなってしまった。
天北線はそのまま直線で南稚内に至っていたが、現在の宗谷本線は南方より大きくカーブを描きながら進んでいる。これは天北線が幹線としてはじめに作られたためだ。
【南稚内】(みなみわっかない:当初は稚内。冷たい飲み水の川のアイヌ語からで、のちに変更となった)
宗谷本線の駅として現役。当初は宗谷線の終着駅である「稚内」として作られたが、その先に「稚内港」が開設された。その際に、駅の位置も多少変更されたようだ。のちに「稚内港」が「稚内」に、「稚内」は「南稚内」に改められて、現在に至っている。
2000.2