はじめに
【区 間】白石 - 東札幌 - 定山渓温泉(29.9km)
【主な駅】
白石 東札幌 豊平 真駒内 石切山
藤の沢 簾舞 滝の沢 錦橋 定山渓
【沿 革】
1918.10.17 開業
1929.10.25 電化
1931 苗穂駅(北海道鉄道)乗入れ
1945.03 白石 - 東札幌廃止
1957 札幌駅(国鉄)乗入れ
1969.11.01 全線廃止
定山渓鉄道は、札幌市内と郊外の定山渓温泉を結んだ鉄道である。当初は白石が始発だったが、後に当時の北海道鉄道の苗穂まで乗り入れが開始され、専らそちらが主になった。その間、全線電化が行われている。
温泉客の輸送だけでなく、途中の錦橋からは豊羽鉱山への分岐線、定山渓から先には豊平川上流へと向かう森林鉄道があり、木材や鉱石の輸送にも使われ、活況を呈していた。
しかし、しだいに自動車の時代に移っていく中、利用客が減少し、さらに都心部での踏切の問題に、札幌市による地下鉄建設にともなう用地買収の話が重なり、1969年、ついに廃止となった。藤の沢までの鉄道用地は札幌市に買い取られた。
現況
駅舎については、一部はほぼそのままの姿で現在も残っているが、都心部の線路跡はほとんど残っておらず、特に地下鉄用地に使われている部分の痕跡はない。札幌市が所有する残りの緑ヶ丘より藤の沢までの区間は将来の地下鉄延長に備えて確保されていたが、近年一部が道路などに使われるようになった。郊外については築堤や橋台など、残っているものは少なくない。しかし、廃止後30年が経ち、多くは自然に還ってしまっている。また、最近になって消えてしまったものもいくつかある。
会社は、定山渓鉄道の略称であった「じょうてつ」と名前を変え、本社の建物はそのままで、バス事業などを手掛けている。
解説
【白石】(しろいし:この地を開拓した仙台藩白石の人々が、郷里の名前をとってつけたもの)1945年に戦時供出により白石〜東札幌間が廃止になるまでは、開業以来の始発駅であった。しかし、50年以上が経過して、JR白石駅とその周辺も開発が進み、当時を思わせるものはない。
その先東札幌までの区間は住宅が密集しており、当時の面影は全くない。途中の小川も河川改良がされていて、橋台などの遺構を見つけることはできなかった。
【東札幌】(ひがしさっぽろ:札幌の東側にあることからつけられた)
広い空き地となって残っている。建物などの遺構はまったくない。
周辺がマンションなども立ち並ぶ住宅地となっている中、この土地だけが使われずにいたのは、定山渓鉄道(以下、定鉄)廃止後も、1986年まで国鉄の貨物ターミナルとして使われていたため。周囲には倉庫なども残り、時が止まっているかのよう。ただし、再開発地区に指定されており、近く大規模なコンベンションセンターなどができる予定だ。
この先の線路跡は倉庫街となっている。関連会社の建物も多く見られる。住宅展示場の横は駐車場などに使われている細長い区画があり、そこが線路跡のようだ。
【豊平】(とよひら:くずれた崖を意味するアイヌ語の地名から)
駅舎は株式会社じょうてつの不動産部として、隣の本社社屋とともに現在も使われている。裏には1番ホームもそのままに残っている。構内は駐車場になっている(2005年駅舎・本社社屋ともに解体。跡地にはマンション)。
当時は市電も駅前まで延びてきていて、商店は賑わっていたが、その頃の建物も残っている。すぐ脇の国道36号線には踏切があり、列車が通るたびに車の通行が遮断されて問題になっていたそうだ。今ではさらに交通量が増え、そんなことは考えられないだろう。
線路跡は、すぐに大型スーパーとマンションで途絶えるが、道路によって、かろうじてたどることができる。途中からは、跡地に地下鉄南北線の地上部分が作られていて、痕跡は全くなくなっている。
【澄川】(すみかわ:当初は北茨木。後に周辺地区が澄川となり駅名も改称した)
ちょうど、現在の地下鉄澄川駅の位置にあった。駅前の雰囲気に、昔の面影が感じられなくもないが、残っているものは何もない。
【慈恵学園】(じけいがくえん:坂の上にあった同名の私立校のために作られたためにその名となった)
地下鉄自衛隊前駅付近のじょうてつが経営するスーパーの向いあたりが駅跡。地下鉄地上部の高架下になる。駅名の由来となった学校は、校名を変えつつも健在。
【真駒内】(まこまない:山奥から流れる川を意味するアイヌ語の地名から)
駅の位置は、現在の地下鉄真駒内駅とは違い、だいたい地下鉄自衛隊前駅との中間あたり。当初は一面牧草地の寂しいところだったが、戦後は進駐軍のための専用線ができ、物資の輸送などでさかんになった。現在では、自衛隊敷地を除けば住宅地に変わっている。
【緑ヶ丘】(みどりがおか:)
ここが、ちょうど現在の地下鉄の終点真駒内駅にあたる。当初駅はなかったが、牧草地跡に団地がつくられ、人が増えてきたために設けられた。しかし、地下鉄建設に加えて、周辺は冬期オリンピックのために整備されているので、面影は全くない。
その先は、道路に挟まれた細長い薮となって残っている。ただ、現在、このあたりでは工事が行われており、残っていた石山陸橋の下を通るトンネルの石山側入り口が、その前後の線路跡とともに道路へと変わりつつある。坂の下までの築堤は残るが、それも今後どうなるか分からない。交番の裏からの旧国道に平行する道路が線路跡で、石切山の先まで続いている。
【石切山】(いしきりやま:付近に札幌軟石の採石場があったことから、この名が付いた)
振興会館として現在も使われている。駅舎が残っているのは、豊平駅とここだけで、貴重な存在だ。 名前の由来となった軟石がここからたくさん積み出されていたが、この駅舎にもそれが使われている。
国道230号線を渡った先からはかなり明確で、細長い草地や、一部は遊歩道となって残っている。ただ、最近まで残っていたオカパルシ川のコンクリート橋台は、河川の改修工事でなくなってしまった。この川の前後は住宅が密集し、一時的に線路跡が途切れている。
【藤の沢】(ふじのさわ:元は藤ノ沢。用地提供者の2人の名前が由来。後に、地区名が駅名をとって藤野となった)
給水所や変電所もある大きな駅であったが、駅舎はもとより各施設も跡形もなくなっている。近くにあった社宅の跡などとともに広場になっている。また、奥地の豊羽鉱山からの鉱石を選鉱場へ運ぶ専用線も分岐していたが、それもまったくわからない。ただ選鉱場跡は残っている。
【十五島公園】(じゅうごしまこうえん:付近にあった公園の名をとってつけれらた)
十五島公園へと下る道の脇に設けられていたが、その跡はすでにない。現在パチンコ店の駐車場となっているあたりだと思われる。名前の由来となった公園へのアクセスと自社ですすめられた分譲地のために設けられた。現在でも炊事遠足の場として親しまれていて、当時と変わらず小中学生などで賑わっている。
【下藤野】(しもふじの:)
含笑寺の裏あたりのはずだが痕跡はあまりなく、建物の向きと土地の形状から推察できるくらい。付近の小川は暗渠で渡っていたようで、現在の地図にもその記載があるが、実際には河川改修で消えてしまっていた。
住宅の増加にあわせて作られたが、後に定鉄による団地の造成にあわせて100メートルほど西に移設されている。
【東簾舞】(ひがしみすまい:)
橋のたもとのバス停があるあたりで、二階建ての住宅兼待合室が建っていたとのことだが、それとわかるものはまったくない。近くの国立病院の利用者のために設けられ、それなりの利用者もあったようだが、駅前旅館の建物が今も残るほかは、その面影はない。
簾舞までの線路跡は、短いながら小道などとなって残っているところが多く、架線柱の土台跡がその道路脇に埋まっている。簾舞通行屋裏では公園となっているが、すぐ先の川にはレンガ積みの橋台と橋脚の土台がひっそりと残っている。川を越えた先もわずかに築堤が残り、さらに先の小学校裏あたりからはまた小道となっている。簾舞のすぐ手前あたりから線路跡は判別できなくなる。
【簾舞】(みすまい:峡谷にある川を意味するアイヌ語から)
当時からある材木工場の 貯木場のはずれが駅跡だが、それと思わせるものは残っていない。当時は給水所も設けられていた大きな駅であった。
周辺には古い住宅が残っているが、国道が切り替わった後、旧道沿いにあった商店の多くは今はない。
その先は深い薮に覆われていて、廃止後ほとんど手付かずのようだ。 石積みの擁壁や キロポスト、切断された 架線柱とその土台などが残っているが、長い年月で 土砂が崩れているところも多く、安易に入っていくのは危険だ。
【豊滝】(とよたき:川の流れがたくさんの滝のようだとつけられた地名から)
付近の農家の要望で作られたということで、駅跡は国道からかなり入った川岸だが、当時とは地形が変わっているとのことで、その跡を明確にすることはできない。前後の線路跡も深い薮に覆われている。ただ、
しばらく滝の沢に向かって進むと、徐々に線路跡が判別できるようになり、その中に痕跡も点在している。中でも川をまたぐ溝渠は、上にかぶされていた土砂は長い年月の間にすっかり洗い流さされ、躯体が露出している状態だ。
【滝の沢】(たきのさわ:当初は滝ノ沢)
このあたりは、道路工事がすすんでいて、駅跡周辺には、そのプレハブ事務所が置かれている。駅跡と思しきところもかろうじて残っていたが、それも時間の問題だろう。
ここは登山道の入り口で、自然が豊富なこともあり、行楽で多くの人が訪れた。
並行する道路を拡幅してバイパスにする工事が行われており、ほぼ完全に残っていた築堤が切り崩されてほとんどなくなっている。ただ、途中の橋台は残っており、薄汚れたレンガに時代の風格が感じられる。また、並行する道路を離れた林の中の切り通しにはキロポストや架線柱の土台跡も点在していて、ここに列車が走っていたことを示している(2004年線路跡は道路拡幅により消滅。キロポストなども残っていない)。
【小金湯】(こがねゆ:付近に存在する温泉地である小金湯温泉から)
駅跡に民家が建っている。ここは湯治場である小金湯温泉のために設けられた停留場だったので駅舎はなかったが、そのかわりホーム上に住居兼商店が建っていた。民家はそれが建て替えられたもので、小屋は商店の附随施設だったらしい。法面には土留めのためのレールが何本も刺さっている。道路側にある駅跡を示す案内標は倒れてしまっていた(2004年駅跡は道路拡幅の影響により消滅)。
近代的になった定山渓温泉と違い、落ち着いた湯治場の雰囲気は当時から変わっていないようだ。
線路跡は薮の中だが、白樺の列と築堤などから比較的はっきりしており、キロポストや架線柱の跡なども一部には残っている。途中から付近は農地となり、線路跡も農道として利用されているが、その脇にはキロポストが撤去されずに放置されている。
【一の沢】(いちのさわ:駅名は、このあたりの元の地名が一の沢だったことによる)
農道が農家の脇を通り過ぎ、そのまままた薮の中に進んだあたりが駅跡。薮が深く、明確な痕跡は見つけられない。以前はホーム跡がみられたようだが、現在のところ確認できていない。
この駅は付近にあった一の沢発電所の建設のために停車するようになったのが始まりで、のちに正式に乗降客を扱うようになったとのことだ。
一の沢をから先はすぐに川にぶつかるが、橋桁はすでに撤去されているものの、現在も橋台は断崖絶壁の上に残っている。また川を渡ったあとには、それに続いて、連続する小さな橋脚が放置されている。このあたりから一時離れていた国道がすぐ横を平行するようになり、百松沢橋付近まで続いている。さらにその先では再び国道から離れていくが、そのあたりの線路跡は判別することが難しい。ただ、部分的に残っている遺構もいくつかある。
次の錦橋の少し手前からは山を迂回する形で断崖絶壁の上を進んでいた。かつては豊平川との間のわずかな隙間に線路と旧国道が並ぶ状態であった。その跡は民間業者のスクラップ場となっているようで、廃車両をはじめとした多くの廃材が無秩序に並んでいる(2006年現在、廃車両は撤去されている)
【錦橋】(にしきばし:付近にある橋の名から付けられた)
バス停と待合所が設置されている旧国道沿いの少し高くなっている部分周辺が駅跡。石積みの土台が残っている。構内部分は前後の線路跡とともにほとんどが空き地となっているが、目立った痕跡は確認できていない。石積みの擁壁が数少ない手がかりととなっている。
原木輸送のために開設され、その後豊羽鉱山専用線が作られて、鉱石の輸送も盛んになったが、現在は国道も切り替わり、専用線も廃止されて、付近の賑わいもなくなった。
錦橋を出たあとは、川の手前で左に大きくカーブするが、そのあたりは完全に薮の中。崖の間を通るところは拡幅した道路によって消されている。その先は旧道沿いの民家の裏が線路跡で、痕跡は残っていないが付近は昔の雰囲気が残っている。公園付近で旧道と線路が交差し、線路が川側に移っていたが、その部分ははっきりせず、踏切の跡などもよくわからなくなっている。
【白糸の滝】(しらいとのたき:すぐ近くに白い糸のように流れる滝の名前から)
北海道秘宝館が建つあたりに駅があったが、痕跡はない。ただ、その前後にある小さな川の一方には流れを渡る部分に跡らしきものを見ることができる。
名前の由来となった滝は国道からは見ることができないが、現在も残っている。しかし、あまり見る人もいないようで、付近はひっそりとしている。
温泉街に入ると、線路跡を追うことは難しくなる。国道沿いの商店や郵便局の裏を通っていたはずだが、明確な痕跡はない。新しく建ったホテルなどでも消されてしまっている。
【定山渓】(じょうざんけい:僧侶定山が開いたためにつけられた定山渓温泉の名から)
駅跡は公園になっていて、その中に案内板と駅舎に使われていたという石材が置かれているのみ。付近の線路跡もほとんど分からなくなっている。
かつては、さらに奥の豊平川上流まで森林鉄道が通っていて、切り出された木材の運搬も、定山渓鉄道の重要な使命であった。森林鉄道の跡は一部が遊歩道となっており、レールが柵として使われている。
1997.9