歌登町営軌道 - 廃線跡Report

はじめに

【区 間】

 小頓別 - 歌登(16.7km
 歌登 - 志美宇丹(12.6
km
【主な駅】
 小頓別、歌登、志美宇丹
【沿 革】
 1929.12.01 小頓別 - 幌別六線(歌登)(枝幸線)
 1930.09.04 幌別六線(歌登) - 枝幸港(枝幸線)
 1933.11.10 幌別六線 - 志美宇丹(幌別線)
 1936.10.27 幌別十二線 - 志美宇丹(本幌別線)
 1951.––.–– 歌登村営軌道となる
        歌登〜枝幸港廃止
 1971.05.29 全線廃止

 歌登町営軌道は殖民軌道として1929年に開通した。植民軌道とは、開拓地での交通手段の確保などを目的として、道北・道東を中心とした北海道内に数多く作られている。のちに殖民軌道は簡易軌道と改称されたことからもわかる通り、軌道という名前がついているものの一般的な鉄道・軌道とは異なる簡易的なものであったといえる。根拠となる法律や所管についても、大きく違っている。  当初は小頓別から上幌別六線・枝幸の枝幸線のみだったが、その後上幌別線、幌別線といった支線が作られていった。その中でも枝幸線は比較的早い段階でガソリンカー(自走客車)による動力化がなされたが、それ以外はほぼ馬力で運行されていたという。  1951年には歌登村営軌道、その後町制施行とともに歌登町営軌道となって運行されていたが、開拓地の整備や道路網の拡充などが進むにつれて、その必要性も失われていき、1971年を最後にその歴史を閉じた。

現況

 国鉄天北線との接続駅であった小頓別は、その天北線もすでに廃止となっており、目立った遺構は存在しない。そこから歌登にかけての線路跡は断片的ながら残っているものの、比較的最近まで放置されていた橋桁はすでに撤去されており、残るトンネルも坑口が封鎖されるなど、年々痕跡を辿ることは難しくなってきている。ただ、歌登周辺では軌道事務所の 建物がほぼ昔のままに残り、志美宇丹にはターンテーブルや車庫がひっそりとその歴史を伝えている。

解説

【小頓別】(しょうとんべつ:沼に行く川の意のアイヌ語「ト・ウン・ペッ」の頭に「小」をつけたもの)
 廃止から40年近くが経過し、その痕跡はほとんど残っていない。駅跡には保育園の建物が建っており、隣接して音威子府と南稚内を結んでいた天北線の駅もあっ たが、天北線も廃止となっているため、鉄道の存在を示すのは、駅跡と国道を結ぶ道道の名前「小頓別停車場線」と、バスの待合所に掲げられている「小頓別 駅」の看板くらいのもの。なお、この看板は現役時代の天北線小頓別駅に掲げられていたものだということだ。

 小頓別を出てすぐは天北線と平行しながら東に進んでいたが、その部分は不分明ながらも空き地として残っている。ただ、天北線と分かれたすぐあとでは、廃止後に作られた国道によって線路跡は分断されており、近年まで放置されていた頓別川と旧道を渡るそれぞれの橋梁も、すでに橋桁が撤去されており、現在では橋台のみとなっている。道道との立体交差部分も既に埋め立てられており、そのすぐ先でくぐっていた毛登別トンネルは現在でも道路からその姿を確認することができるが、坑口は既にコンクリートで封鎖されており、中の状況を確認することはできない。近年になって、並行する道道の改良工事が行われ、さらに周辺の状況は変わっている。
 また、トンネル 開通までの旧ルートは北側の山間部を大きく迂回していたが、すでに半世紀以上が経過しており、正確に辿ることは難しい。その先については、断片的に橋梁の跡などを見つけることができる程度なっている。
 

【歌登】(うたのぼり:長流川の上流であっためについたが、地名が上長和になったのにあわせて駅名も改称)
付近は幅の広い道路に変貌しており、路盤跡はすでに消滅している。ただし、軌道事務所の建物が「歌登町簡易軌道事務所」のプレートもそのままに残っており、当時からの車庫など、その面影を残している。  ここから続いていた枝幸までの部分はほとんど痕跡はなく、目に入るのは、未開通のまま残された美幸線の跡ばかりだ。




  比較的最後まで運行されていた幌別線の跡は道道とほぼ同じルートを辿っていたと思われるが、橋台跡など、一部を除いて明確ではない。美幸線の未開通部分が 目立つばかりだ。ただ、途中にある歌登健康回復村の敷地内には、歌登町営軌道で使われた機関車が保存展示されており、傍らに説明板も設置されている。

【志美宇丹】(しびうたん:滝の川を意味するアイヌ語「ソ・ペッ」からとったもの)
深い草むらの中にひっそりとターンテーブル跡が放置されている。そのすぐ近くの民家として使われているのは駅舎兼車庫の建物とのことだ。建物自体は大きく傷んではおらず、歌登の軌道事務所、健康回復村の機関車とともに、軌道だけでなく、開拓の歴史を伝える重要な証人だ。



2000.7